後のことを考える

大学生の夏休みは長い。
高校を卒業して思ったこと。大学によりまちまちだけど、うちの場合はだいたい8月の頭から9月中旬まで。
3期制の高校だと、7月の末頃から9月1日までだろうから、10日前後長いことになるだろうか。

そんな夏休みは今年で4年目になるわけだが、4年目にして自分は長くない夏休みを迎えることになった。
理由はカンタンで仕事をし始めたからだ。高校を卒業した頃は、普通に大学に入り、普通に卒業して、普通にどっかに就職して(昨今は就職氷河期というけども)なんて考えていた。
ラノベの主人公みたいに、それを達観していたわけでもないし、それを防ごうと何かするわけでもなかった。
それを達観というのかもしれないが、その中でもなんとか頑張ろうと思っていた。

小学生の友人(このところ全然会っていないから、友人といっていいのか迷うところだが)が、高校を中退して、どこかでバイトをして気ままに暮らしていると、その友人の母親とうちの母は仲が良いので又聞きした。
そのとき、僕はどう思ったか。なんて馬鹿なことをするんだろうと思った。
もう少し我慢していれば、今より絶対良い道が開けるはずなのに。大学を無難に卒業すれば、少なくともフリーターよりいい道なはずなのに。
何故、彼はそんなことをしているんだと。馬鹿にしていた。

自分の今の姿をその頃の自分に見せたらなんと言うんだろう。
たぶん、意地っ張りな自分のことだから、同じ事を思うだろう。「オマエは、何をバカなことをしているんだ」

だが、別にバカなことをしているわけじゃない。大学を辞めたわけでもないし、どんなにかかっても卒業するつもりだ。それにかかる費用は地道に両親に返している。
ここからは自分が選択していかなくてはいけない。適当に流れに任せていてはいけない時がやってきた。

いざ自分がそういう立場になると、かの友人はものすごい勇気があったんじゃないかと思う。
いや、当人は絶対に学校がイヤでイヤでしょうが無かった。学校というより、勉強というのが嫌いな男だったから、僕が妄想しているような決断をしたつもりじゃないんだろうけど。
自分の人生を彼はあの歳で決めたんだ。

この夏、祖父がついに死んでしまった。
亡くなる1週間前に危篤状態になった。そのあと少し意識を取り戻して、僕にこう言い残してくれた。「あとのことはよろしく」

危篤状態だと聞かされて病院に向かうと、祖父は病院の処置室にいた。祖父の家に引っ越していたいとこ達は既にいて、みんな涙目だった。僕は祖父の顔を見た瞬間絶句した。今まで見ていた祖父の顔と全然違ったからだ。入院して、頬もこけてきていたけれど、目の輝きのようなモノはいかにも優しい祖父の強いイメージだった。そのときイメージの面影はなかった。

僕はまだ大丈夫と思いながら、祖父の手を握って口角をあげた。祖父は手を握りかえしてくれて、若干だが笑ってくれた。そうしてつぶやいたのがあの言葉だ。

さっきも書いたが、その後病状は安定したが、その約1週間後に祖父は死んだ。何度かお見舞いには行ったが、寝ている時間が多かったり、こちらを認識できないことが多かった。

今も家にあるが、葬式の写真は僕が今年の1月の時に撮った旅行の写真が採用された。痩せてはいたが、にっこり笑って、外向けの服をきっちり着た良い写真だ。最初、父は笑いすぎだ、と言っていたが、孫一同全員賛成で決まった。

その写真を見ると、祖父のことと祖父の残した言葉をどうしても思い出す。そのたびに、今の情況が頭の中でグルグルと回る。

僕は祖父に何を任せたのだろう。祖父は僕の何を見て、任せようと思ったのだろう。

未だに答えが見つからない。
この文章を書いたのは、そんな自分の心情をなにか形に残したかったからだ。
おそらく、今以上に今後は忙しく辛くなる。このことは忘れちゃいけないことで、僕は忘れっぽいから形にする。
何もブログに書き記すことはない、手帳の端っこや、テキストとしてハードディスクに眠らせておけばいいことでもある。

だが、ブログに書かないと落ち着かない。
見てもらって、可哀想がってほしいわけじゃない。

たぶん、宣誓みたいなことをしたいのだろう。
僕は祖父に任された。だから、これまで以上に頑張る。

友人の話も出てきたが、それはまだまだ流れに身を任せていた自分がいたことを確認したいため。
これからはそういうことは辞めよう。

喪中だけど、僕はここを節目になんでもやろうと思います。

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